ヨーガスートラの解説書である「インテグラルヨーガ」のスワミサッチダーナンダ師の言葉は、何度読み返してもいつも新しい感動があります。
ヨーガスートラの解説と実践のための講座をしていると、生徒さんからいろんな角度の質問があがってきます。その度に、自分の思考が解釈の邪魔をしないように歴代の解説書を開きます。
先日開いた項に、今現在の私自身の深い部分を言い表してくれる言葉がありました。
もう何度も読んでいますが、やはり私の心を新しくしてくれます。
「<神>を体験するということは正真正銘の“何か”であって、そうした心を越えたときのみにもたらされることなのだ。<神>は心によっては理解され得ない、なぜなら心は事象であって、事象が事象よりも精妙なものを理解することは、到底できないからだ。」
先日、とても久しぶりに映画「グランブルー」を観ました。ジャックマイヨールをモデルにした有名な映画です。
ジャックの友人であるエンゾが、本人の身体的生理的限界を越えた海底まで降り、海面にはあがったものの息絶える直前の言葉で、ジャックにこう言います。
「本当だった。」
何が?と聞くジャックに
「・・・・戻る理由が見つからない。」
この言葉は、遠い記憶を呼び覚ますような、究極の憧れのような気持ちを呼び起こします。
生きている間、私たちはジャックやエンゾの言うところの「陸」の世界で有為の世界の様々な側面を体験し、観て、感じています。あたかもそれが本当のようなものとして体験をします。
肉体を持っていきているので、やはりその時はそれが真実なのです。真実のあるひとつの側面、というほうが正しいかもしれません。
しかし私たちは人生の中で肉体を持ちながらも、幸運にも何度か、もしくは何度も、稀にか常にかは人それぞれですが、<神>に接触する機会を持つことがあります。
多くの人にとってそのことを忘れている時間のほうがあるかに長いのかもしれないですが、それでも、人の魂とは脱皮を繰り返して源の還ろうとするものなので、
誰にでもあり得る事です。
スワミサッチダーナンダ師の、
「心は事象であって、事象が事象よりも精妙なものを理解することは、到底できないからだ。」
という言葉は、私に深い安堵を与えてくれます。
そう、黙ればいいだけなんだ、と。
『ことばというものは終わらせる機能しかない。はじめる機能などありはしない。』
三島由起夫の言葉です。
『表現されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら芸術家は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのをだれもとめることはできない。しかしことばが出たらとめられる。それが芸術作品でしょう。(中略)ことばというのは世界の安死術だと思いますね。ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない。』
創造の世界とは、止めることのできない事象の移ろいで、人はその中で何かを知覚することで自己を理解していきます。そしていつか言葉のない沈黙の「それ」へと戻ります。
何年か前に瞑想をしていた時、私はぎゅうぎゅうに圧縮された、内壁が幾何学的水玉模様の高速のトンネルを抜けて、ある世界に着いたことがありました。
着いた先には、肉眼では観た事のない「ぜんぶ」である「色」の"何か”がありました。
そこは裏と表がなく、こっちとあっちがなく、私が「何も」発しないでいられたわずかな間だけ「時」ありませんでした。
(「その間だけ時がない」という表現が間違っているのはわかりますが、言葉ではそうとしか言えません。)
かろうじてあるのは、私が私だと認識しているギリギリで最小の自己意識の背後に「うしろ」らしきものがあるような気がしただけです。
それ以外に「位置」を決めるものがありませんでした。
音に関しては、皆無でした。
私たちの世界では、動くものは音であり、音がなければ現れることができない。変化とは音であり、創造とは音です。
しかしそこでは、音が介在しない「動き」があったのです。それを言葉で説明することはまったくできません。
今思うとそれは私個人のソウルの原形であり、私個人の意識のスターゲートだったのがわかります。
私はそこで、沈黙を守っていられた間だけ、永遠を観ることができました。
しかし私のエゴ、つまり言葉が動いてしまったんです。
「ここにいたい」と思ってしまいました。
グランブルーのエンゾのように、陸に戻る理由が見つかりませんでした。
地球上で観ることのできない「すべて」である「色」、一秒でも長くこれを観ていたい、と思ってしまったんです。
しかし思ったとたんにそれは「言語化」され、「観ていたい」という言葉になってしまった瞬間に、「時間」が生まれてしまいました。
私はもといたトンネルに、来た時よりかはスローな速度、かつおおざっぱに緩んでいく液体のように、「時間と創造」「感覚」の世界へと漏れ出していきました。
離れていくとき、もったいなようなさみしいような、しかたがないようないろんな感覚が混ざっていましたが、それでも、目をあけて「現実」の世界を観てみると、それはその体験の前とは違うものでした。
「それ」は、この地上の世界のすべての現象の背景に原理として働いていて、時間という音の中で一瞬でも完全な沈黙に身を置く事ができれば、「それ」を見出し、知覚することもできる、と。
冒頭のスワミサッチダーナンダ師の言葉が好きです。
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