EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年12月23日水曜日

EMIRIの『年またぎヨーガ』2020~2021年・年末年始のオンラインヨーガ企画

〜鍛えて年越し、清めて年始〜

EMIRIの『年またぎヨーガ』


年末年始は体を鍛えて心のパワーも高め、清々しく新たな一年をスタートしましょう。

12月29日から1月3日までの6日間、オンラインにて朝のヨーガ、筋トレエクササイズ、そしてヨーガ哲学のお話を毎日お届けします。

 

 

 ヨガスタジオがお休みになる期間のヨーガ練習を確保したい

 一年の終わりと始まりをヨーガ哲学で心を整えたい

 お正月太りを防いで体をいい状態に保ちたい

 どこにもGo toできないから家での楽しみを増やしたい

 この際だから休みの間にナイスバディになってやる

 

そんな多種多様なご希望に、EMIRIがごっそりお応えします。

 

 

<毎朝のレッスン内容>

・筋トレエクササイズ(20分)

 腹筋、腕と背中、下半身、とバランスよく筋肉を刺激するエクササイズ。6日間通じて毎日同じメニューお届けしますので、継続して出席していただければだんだんと鍛えられて成果が現れてくるのを感じていただけます。

 

・ヨーガ(40分)

 体をほぐして十分に伸ばしていく心地よいヨーガ。先に筋トレをして程よく体温を上げ、成長ホルモンなどを分泌させた状態でヨーガの有酸素運動をすると効率よく脂肪が燃えて、柔らかく強い体を作ることができます。

 

 

・ヨーガ哲学のお話(20分)

 日替わりでヨーガ哲学をお届けします。

 

 

・フリートーク(10分・参加は任意)

 お時間が大丈夫な方は少しお話ししましょう!

 

 

<朝の時間に出席できない場合は・・・>

その日のレッスンのアーカイブ動画を当日内(23:59)までご覧いただけます。朝の時間にオンタイムで参加できなかった場合にお使いください。

(オンタイムで参加できた方も含め参加者全員にお送りします。)

アーカイブ動画の閲覧URLはレッスン終了後、当日12:00までにメールにてお送りいたします。

■期間:2020年12月29日(火)〜1月3日(日)までの6日間

午前8:00〜9:30

*レッスン本編は80分、最後のフリートーク10分は任意でご参加ください。

*途中参加可能ですが、レッスンがスタートしてしまいますと講師も一緒に運動を始めますので、画面の操作上で「入室許可」を出すのに少しお待たせしてしまう場合があることをご了承ください。「よくある質問」コーナーもお読みください。

 

 

■受講方法:オンライン

・ご自宅などのヨーガがしやすい環境と、インターネット通信の安定した環境にてご受講ください。

 

・使用アプリケーション:zoom

お申し込み完了後にメールでお送りするzoomミーティングのURLにアクセスしていただきます。あらかじめ、当日お使いになるPCやスマートフォンにzoomのアプリケーションをインストールしていただきます。詳細はお申し込み者様にお送りします。

 

■参加料金:(6日間分のご料金)

2020年12月25日23:59までにお申し込み:5000円

2020年12月27日〜28日18:00まで:5500円

お支払い方法:クレジット決済(paypal)・銀行振込

 

☆ご家族特典

同居のご家族も一緒に参加したい場合は、お一人分1000円の追加料金をあらかじめお支払いいただければご受講して頂けます。

上記は同居されているご家族で、同じ端末画面でのご参加になります。参加人数が増えてもzoomのURLに接続する端末は一台でお願いいたします。

当日対応は出来兼ねますので必ず事前にお申し出ください。

 

 

■お申し込み期間

2020年12月28日18:00まで

  

■期間限定の特典:

2020年12月25日(金)23:59までにお申し込み頂けますと500円割引の5000円にてご受講可能です。


詳細、お申込みはサイトへ


スマホを捨てたい、という衝動について。

雑記コラム

スマホを捨てたい、という衝動について。

最近、スマホをもう持たないでいたいな、と思う時がよくあります。

実際は日々の生活でも仕事でも不可欠なものとして使っているのでいきなりぽいっと捨てたり解約したりということはできないのですが。まずもって連絡ツールとして使っていますのでね。


でも・・・ガラケーとかに戻りたいなあ、とか思います。
いろいろ機能を搭載したスマホが、そこにいるだけで「うるさい」のです(笑)。


20代初めの頃に、一人暮らしをしていた家のテレビが故障して破棄したのをきっかけに、それ以降私は自宅にテレビを所持していません。テレビがないってこんなに静かで、こんなに心が軽いのだなあと思ったものです。実家に帰省した時に当たり前にテレビがついているのに違和感を感じたのですが、それは自分の暮らしではなく親の暮らしの要素なので、文句や意見は言いませんでしたが、やっぱりテレビっていらないな、と思ったわけです。

うっとおしく感じるならテレビがあってもつけなければいいじゃん、見たい時だけつければいいじゃん、と思うかもしれないですが、いいや、そこにテレビという代物があるだけでいろいろ「発している」ものがうるさいのです。電源をつけていなくても、テレビは存在自体が何かを放送しています(笑)。ですので、それ自体がないことが重要なのです。

テレビってヨーガ理論の言葉で言うとすごく「ラジャス(激質)」な物質で、画面をオンしていなくても「ほーら、いつでも待機してまっせ、すぐに電波と情報垂れ流しまっせ」と「言っている」存在に、感じるのです(笑)。この件は、なにも私が神経質なたちだからというわけではないと思っています。というのもヨーガ先生仲間の多くはテレビなしの人が多くて、そしてテレビ自体の箱(筐体)が放っている周波数、テレビのある実家や友達の家などに行った時の感覚など、似たような感覚を持つことが多いのですよね。わかるわかる、と。人の家だからいいけど、自分の空間にはいらないよね、と。それはテレビがなくなって、ない生活に慣れてみないと感じないことかもしれません。


で。最近、スマホにそれを感じます。

見なければいいのですが、そこにあるだけで「放っているもの」や、その「可能性」がうっとおしいのです(笑)

あはははは!

可能性がうっとおしいって!!スマホなんて「可能性」を売っているようなものだよね(爆)!


 もうあなたは山にお帰り・・・

と、ナウシカに言われそう。



そのたくさんの可能性を便利に実現してくれるツールですし、スマートフォンって「その時その場でやれること」が多いのが最大の特徴であり人々に使われている理由でしょう。

でもそれが、私にとっては気を散らすものです。(みんなもそうかな。)

空いた時間や、ちょっとした退屈の時、気晴らしの時などにスマホを開いてオンライン状態になると、そういった「なんでもない思考空間」「余白」と言ってもいいかな・・その中だけで起こってくるアイデアやインスピレーションが、とたんにどっかに行ってしまうんですね。それは私にとってひどく重要なことで、スマホを開いて雑多に時間を紛らわしている時にインド思想について深く考えたりはできない。


他の人との共通性(スマホ持っている同士だとできること)などにこだわったり執着しますと、どんどん自分の「余白的思考空間」が情報ややりとりで埋まってしまうのです。


うーんやっぱり、

あなたは来たところに帰ったほうがいいよ・・

と千尋に言われそう(笑)。


なのでバランス取って、「要件のみに使っていたい」というところに今のところは落ち着いていますが、要件だけでいいならば、スマホではくガラケーでもぜんぜんいけるな、とも思うのですね。とりあえずは、スマホ内からいろいろアプリを削除したここ何日。必要なものだけに整理。



では今日も、スマホの恩恵に預かる1日を過ごします。


ナマステ

EMIRI







 



「人生はままならない」について


もう今年が終わっちゃいますね!!!
驚きの速さ。



今年は、年明けに中国でのコロナウイルス発生による「コロナの不穏」からはじまり、それがあっという間に「自分たちのこと」になり、コロナ以外も他にもいろいろあったはずなのですが、なんにせよコロナコロナだったように思います。


話が冒頭から逸れる感じになるのですが、私「ホラー」って苦手なんです(笑)。非常に苦手で、怖い話、ホラー映画、お化け屋敷や肝試しなど、可能な限り避けます(笑)。夏の稲川淳二とか遭遇したくないです。

(ミステリーは大丈夫です。ミステリーに「怖がらせる装置」としてのホラーが加わると難しい。心理的な描写として人間の怖いところが語られている分にはおもしろく読める(観れる)のですが、「確実に怖がらせるための装置(ホラー要素)」が苦手なのですwww 伝わってます?)



そんな私なんですが、昔、流行った当時の頃ですが、鈴木光司の「リング」の小説を読んでしまったのです。映画の「貞子」ですよ。
うぐうううううう、もう思い出すだけで辛い(笑)。
映画は観てないですし、今後も観ないでしょう。あんなのビジュアルにされたらたまったもんじゃないです。CMとか短い映像だけでもういいです。

映画独自の恐怖装置もすごいとは思いますが、原作は原作でもう!!!
昼間からチビリそうなくらい怖くて、読み終わってもだいぶトラウマになったのですが、でも鈴木光司さんという作家の物語構成力は半端なく緻密で、練りこんだ読み物が好きな私はその巧みな引き込み術にまんまとハマってしまったんですねー。普段はそんなの手をつけないのに、当時(学生でした)アルバイト先の先輩だっかた上司だったかに、

「これすごいおもしろいよ」

と勧められて・・・。


 怖い話は本当に嫌いなんですが、「リング」とその続編「らせん」に関しては展開がおもしろかったです。なんとか最後まで読みましたがもう二度と読みたくないです(笑)、こわすぎ。


で、「リング」「らせん」以降、鈴木光司さんに一時期ハマり、他の作品も読みました。(だい〜〜〜ぶ前の話ですけどね。)ホラーでない作品もあり、それこそ私好みの「輪廻転生」的な発想が主軸のお話もあったように思います。どれもおもしろかった記憶があります。


昔すぎて、なんというタイトルの本か忘れてしまったのですが、いくつか読んだ作品の中で、物語の最後の最後にあった「主人公の言葉」が深く印象に残っているものがあります。


その言葉は

「人生はままならない。」

でした。

話の内容は、たしか二十代くらいの若い男性の主人公が、個性的で魅力的なのだけど非常に依存体質な女性と親密になり、最初はいいのだけどだんだんと彼女の中に潜在していた執着や嫉妬で起こってくるいろいろな不可思議な事象・・・・、そんな感じのお話。(ざっくりだけど、なんかドロドロした感じなのは伝わるかな!笑!)


これも鈴木光司さんのテイストなので、単なる嫉妬とか男と女のサガ的なメロドラマが焦点ではなく、人間の心の中にある(とくに女性の)根源的かつ本能的にねちっこいところの手の届かないようなすご〜〜〜〜い深いところまでシャベルを差し込んで、わざわざ私たちに見えるかたちにして目の前に置かれるような話、という感想が残っています。
(これも怖いじゃん!w)


お話の細部や、最後の顛末などもはっきり思い出せないくせに、なぜか最後の主人公の、

「人生はままならない。」

という言葉だけ、とにかく強く印象に残っています。

言葉自体の印象というものではなく、そこまでの物語の内容をすべて「まとめた」視点として、その言葉が物語全体の風景になっている、そんな印象なのです。

いわゆるホッとして安心するような終わり方ではなかった気がするし、かといって極端に悲劇的で後味の悪い終わりでもなかったように思うのですが、「いろいろなことがなんとか収まって、一息つけたとき」に、その上でもなお感じるものが、


「人生はままならない。」


そこにに集約されちゃった。

という感じです。




ここまで書くと「なんて本ですか?」と聞かれそうですが、思い出せません(笑)。




そう、それでやっぱり「人生はままならない」わけですよ(爆)!

そこが話したかったのですが、さかのぼりすぎて「リング」からになってしまいました。いつだって前説の長い私。


当時私は、たしかハタチかそこらで、「人生のままならなさ」など本当の意味ではわかっていなかったのですが、それでもその当時なりの、若いからこその心の葛藤はあったし、知性が及ぶ範囲なども狭かったのですがその中でも「生きるってなんだろう」というような問いかけをもってたように思います。(持っていたと信じたい、ガキだったけど。)



やっと話が冒頭の冒頭に戻るのですが、今年はコロナコロナで、コロナウイルスがどうというよりも、どうやって生きていくべきなのだろう、今後」というテーマが、多くの人たちの心にのしかかっているのではないかと思います。「のしかかっている」と言うと重いのですが、実際そうだと思うのですね。


前回、映画「嫌われ松子の一生」という映画の感想や考察で(ブログで読めます)、孤独についていろいろ思うところをつらつらと書かせていただきましたが、「社会」とか「世界」というものに対する拠り所のなさ」というような気配が、個人的な孤独感や孤立感を高めているようにも思います。


もちろん、新しい生き方を前向きに模索するムーブメントも確かに起こっていますし、ライフスタイルを変えるいいきっかけになった、という人もたくさんいると思います。


しかし社会全体で見ると、前向きな発想を持てる人ばかりではなく、本当に心が辛くなってしまっている人も大勢いると思います。
前向きな人であっても、「楽観」しているから前向きという感じではなく、「人生のままならなさ」を抱えたそのうえで、目線をあげようと努力している人が多いのだと思います。


たしかに、人生はままならないのですよね。
なんの保証もない、と言っても言い過ぎではないと思います。


そうなると、物理的な生活手段とか経済に関することだけではなく、心をどうやって明るい方へ、そして健康なほうへと導きながら進んでいくか、というのを、じっくり考える必要がありますね。


今までもそういったテーマについて考えて来た人は多いと思うのですが、コロナショックとでも言いますか、今回の件でもうちょっと土台から考えないと、太刀打ちできないものを見てしまった」感があると思います。


つまり、

「私たちの社会は脆い」

という大前提のうえに生きてるんだ・・・という、一種喪失感にも似たような不安定要素。


これまでもいろいろとブーム的にもあった「ハッピーに生きるコツ」とか、自己啓発的なもの、それらが無駄とは言いませんし、自分が頑張れば成功や幸福を手にできるという発想、ポジティヴシンキングや心の持ちようによって幸福度はあがるという発想も、無効になったわけではないですが(あったほうがいいですが)、でも、自分だけがんばっても立ち行かないものであったり、日々の心持ちで気分を明るい方に向けることで短期的には乗り越えられても、払拭しきれない「全体の雰囲気」や社会構造、時代の波というものがあると思います。


かなり悲観的な言い方になりますが、脆い基盤の上に、窮屈に立っているのが今の私たちのように思います。


このような世界で生きていく上で、心の健康を失わずにいるには・・・




とりあえずですが、無理をしないことかな、と思います。

とりあえずな事しか言えなくてすいません(笑)。

(その先の提案はまた書きます。)



あまり無理をしないほうがいいと思います。


そして苦しい、悲しい、不安、そういった思いがもしあるなら、助けを求めることも重要だと思います。恥ずかしいことじゃないし、そうしたほうがいいと思います。

つらい、不安だよ、ちょっと助けてほしい。
そう言っていいと思います。




いきなり社会を変えることは難しいので、「とりあえず」まず自分を少し楽にしてあげるのがいいと思います。


楽になるうえで、それを阻むのは、これまでの固定観念だと思います。


止まっちゃいけない、休んじゃいけないとか、役割への固執とか、完璧にやらないといけないとか、みんな出来ているのだから私もできないと・・・、とか。

またはそれを他者(主に家族や近しい人かなと思いますが)に対しても適用させようとするのを、いったん辞めてみるという策はありだと思います。



そんなこと言ったらずっと仕事行かないわ・・・w

とか、

子供は学校行かなくなるよね・・・

とか、いろいろ出てくると思うのですが、


自分が思っている以上に、みんなけっこう葛藤し、社会の不安定さを無意識に吸い込んで、明るく振舞っているように見える人や健康に問題のなさそうな人でも、世間の神経質な空気を吸い込んでちょっと弱っている人が多い、ということを認めてみるといいのではないかなと思います。


自分に、そして他人に、優しくなる、ということかなと。

無理しないで、無理させないで。


「みんながみんなに優しくなれば社会はよくなるよね」なんて楽観的に言うつもりはなく、むしろみんなが優しくなったところにつけ込んでくるような悪意があるこの社会の闇は深いのですが(笑えない)、でもまずは自分を少し解放させて、これまでの観念から自由にして、もう一度エネルギーをチャージして歩み出すのがいいのではないかなって。




そんな事を考えて、伝えたいなと思いながら過ごしている日々、私はよく自分自身の祖父や祖母のこと、祖父祖母の世代を思ってしまいます。
戦争体験のある彼らを救ったものはなんだろう、とか、今の社会現象どころじゃない、もっともっと壮絶で地獄とも言える悲惨な世界を体験して生き延びた彼らは、この人生のままならなさをどう生き抜いたのだろうと。

それについてはまた思うところを書こうと思います。



とりあえず、無理せずに!

具体的な「無理」をひとつ手放して。


ナマステ
EMIRI






 

2020年10月18日日曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その3


「嫌われ松子の一生」を観て



その3 光を頼りに生きよう



私の感想としては・・


映画なのでシリアスなテーマも極端にそしてコミカルに描かれていますが、「孤独」は人の心にとってとても「怖い」ものだと思います。



このままずっと一人でいるより、

どうしょうもない人でも誰かいるほうがいい・・・

 

松子がそう思ったように、孤独をかりそめの幸福で埋めようとします。

それすら埋められないと自暴自棄への道筋ができ、そしてコミュニケーションの不足は人間の感受性を暗く狭いところに閉じ込めていくのだろうと思います。

 

孤独を怖れる心理というのは、原始の時代から人と人が共存して自分の命を守るという本能レベルでの意識が根本だと思うので、ほとんどすべての人が持っているものだと思います。ヨーガ・スートラ第二章にも「アヴィニヴェーシャ」という言葉で「死への恐怖(=生への執着)」として出て来ます。これは賢人ですら持っているものだ、という経文とともに。


孤独感というのは、元気がある時はまだそれを埋めてくれるものを得ようとする「欲望」として作動するのですが、その願いが打ちのめされて元気がなくなるところに行ってしまうと、心の機能自体を閉じていくのだなと思います。自暴自棄になっているうちはまだ元気で、そこから何者とも関わらない、興味を持たないように心を閉じ、そして鬱になったりしていくのだと思います。(そういう意味では松子は最後まで「内海クン」への熱烈な執着があったので、ある意味元気だったのだと思います。)




昨今、「自殺」の多さに、言葉にならない思いを抱くことが多いのですが、自殺というものが「本人の選択」だと言われている側面に、私は少し疑問を感じます。

 

自殺というのは、心の機能が閉じていく段階で起こるある種の「症状」であることの方が多いのではないかと思っています。

「自殺するぞ」

と明確な決心で「選ぶ」というのは、実際には少ないのではないかと。

三島由紀夫や乃木希典のようにはっきりとした意志を持って自決するというのは稀で、彼らの場合は心というものが最後まで自覚的な強さを持ち、意志と意思を持って自決しましたが、しかし心を病んでしまいその行動に赴いてしまった多くの自殺者は、意識的に「選ぶ」というよりも、心が「その段階」に入ってしまって、毎朝普通に出かけて電車に乗ったり、慣れている仕事をこなしたり、毎日行なっている家事をしている時の手順のような、いわば何もあらがっていないオートマティックさで「死ぬ」動作に入ってしまうのではないかと。いつものように階段を登って二階に上がって、なんの遺書もメッセージも残さずに自殺してしまった女優さんのように。(本当のところはどうだったのか知りえませんが・・・)

 

彼女、彼らが、なんで死んでしまったのかはもうわかりようがなく、どんなに推測してもそこに返答は得られません。

書いていると非常に悲しい気持ちになってきますし、面白い映画のレビューのつもりが最後この話になってしまい暗い気持ちにさせてしまっていたら本当に申し訳ないですが。


何が言いたかったかをまとめると、「心に侵食しているもの」に気をつけて、ということです。映画の松子は「ひとりぼっち」がいやでした。(松子は自殺はしていませんが)。自分で何かを選ぶよりも、心を侵食しているものが人生を方向づけてしまうことが多いものです。それを「選択」だと思うのは自我の錯覚で、“私が(あなたが)それを選んだのでしょう?”と言えないところがあります。

 

子供と接していても思うのですが、まだ心が柔らかく、周囲の雰囲気を自分の考えだと思ってしまいやすい子供は、ネット上で得られる社会の雰囲気や流行している考え方、大人たちに与えられた言葉に心を侵食されるのが簡単です。まだ自分の意思を持ちきれていない子供には、やはり真実とともに「明るさ」や「希望」を示して、そっちの雰囲気が大きい状態に舵取りをしてあげないと、ゴミみたいな情報から得るどうしょうもない思考、負の雰囲気、過剰で雑多な他人の思いに飲み込まれてしまいます。大人も、きっとそう変わらないですよね。


いつも思うのですが、正気を保って普通に生きていくということは、本当は大変なことで、その正気を保っていられるのは「幸運」とも言えるくらいな世の中だと思います。


何かあらがえないほどの雰囲気が心に侵食し、そして活動することや、生き永らえることの魅力よりも「その雰囲気」のほうが優勢になってしまうと、思考して選ぶ心の機能も閉じてしまい、「動作」がごく自然に「死」のほうへ赴いてしまう。「死」まで行かなかったとしても心の闇の方に行ってしまいます。自分で選ぶというよりも、そういう流れの方が多いのではないかと思います。


ちょっと話がずれましたね、かなり深刻な問題のほうへ。
戻します。




松子は最後の最後で、「社会的な自分」への小さな光を取り戻します。

わたし、まだいけるかも、と。

そこからの映画の終わり方はさすがに書かないでおきますが(ネット見れば一発ですがw)、生きることというのはつまり、光を頼りにすることなのではないかと思います。

この映画の「松子」は、愛せる人、自分をわかってくれる人を求めて最後まで生きました。そして自死もしていません。とても不器用で不運な人生なのですが、彼女自体はずっと輝いていたように思います。かりそめの愛でも誰かを信じたい、全身で信じる、というのは非常にパワーのいることです。最後の最後でもう一度自分の可能性に心が開いたのも、そのパワフルさゆえなのだと思います。

物語のプロセスにおいては、「あ〜あ〜、まつこ・・・」と思うところが多いのですが、しかし結局鑑賞後に残った感覚は、散々な人生を送った松子の物語にもかかわらず、けっこうスガスガしい風景でしたね。
もちろん別の感想もあると思いますし、ラストに落ち込んでしまったり、いたたまれない気持ちになったりする人も多いと思いますが、個人的には希望的に見届けられるものでした。

それはやっぱり、松子が最後に見た「自分という光」のおかげのような気がします。

以上、「嫌われ松子の一生」を観てのいろいろでした。

映画が好きなので、また映画からの考察を書きたいと思っています。
長文お付き合いありがとうございました。

 

光を頼りに生きよう!


2020年10月17日土曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その2

「嫌われ松子の一生」を観て

その2 生き物としての孤独

前回の投稿で映画「嫌われ松子の一生」から、だいたいのあらすじと、映画のひとつの観点である「孤独」についての考察を途中まで送りました。



「社会的な孤独」と、「生き物的な孤独」についての続きです。


人間には、社会に属しているというタイプの安心感があるのですが、もっと根源的で本能的な感覚で、「生き物」としての安心感というものがあるのだろう、と。

松子の感じた「ひとりぼっち感」は、生き物的、本能的な孤独が大きかったのではないかと思うのですね。

「生き物」といっても生物全般ではなくで、昆虫などの生き物はまた別の感覚で生きている生物として、主に人間や動物などに共通するところで話しています。


それを満たしてくれるものがなんなのか、というと、もう一言に「肌感」だと思うのです。身体に触れ合っていることで満たされる“生きている”実感”。結局、社会的な安心以上に、こっちの方が「生き物」としての孤独を癒してくれます。社会的孤独は感じていなくても生き物的な孤独を感じている人というのは多いのではないでしょうか。または、社会的な孤独を埋めるために生き物的孤独を満たしてくれる関係に依存してしまうことも多いと思います。松子の場合は人生これからという時に社会的に「まっとうな道」を外れてしまったこともあり、それ以降は生き物的孤独を埋める道に没頭してしまいます。ダブルですね。

 

松子の一生を観て、共感でも否定でもないなにか、言葉にならない「そうだよね・・」という思いがじわじわと湧いてきたのは、松子が終始この「生き物としての孤独」を埋めようとして「誰か」を求めていたという姿だと思いました。行くところまで行って「もう死のう」と思っていたにもかかわらず、声をかけてくれた通りすがりの優しい男性とすぐに関係を持って「これだ」と感じてしまう。松子は「人肌」から得られる生き物としての安心に常に引っ張られていたのだなあ〜と。

 

そして松子の特徴的な姿は、まだよく知り合ってもいない男性に自分のこれまでの身の上話を長々と詳細に話してしまうところ。知ってもらうことで満たされるという条件も松子には非常に重要で、人生の終盤、最終的に社会的孤独を選び、飲んで食って寝てゴミ屋敷に暮らしても、最後の最後まで「(誰かに)私のことを知ってもらう」ということに執着し続けます。最後その矛先が「光GENJI」にまで抽象化されるという(笑!!!)。ここでもまた、共感でも否定でもない「なにか」に胸がいっぱいになりました(笑)。

(しかも光GENJIの「内海光司」に設定したあたり、原作か脚本かわかりませんが、すばらしいセンスを感じます。他のメンバーじゃだめですよ、内海光司が最適な人選です。って、私より年下の方はこの話題わからないですねwww とにかく内海光司にしかない「松子が夢中になる要素」があるように思ってしまった私は、まんまと演出にハマってますねw)

 

松子はラスト、内海クンに自分の生い立ちを詳細にしたためた長い長い長い!ファンレターを書き、投函します。しかし返事は来ません。来ないことにまた憤慨し、発狂します。

 

「リアクション」があることが大事。


松子は、社会的にも、人間らしい人生という意味でも行けるところまで堕ちますが、それでも「誰かと関わりたい」と思っている。観ている側はその心理にもう腹パンチ的な「いたたまれなさ」を味わうのですが、この映画はそのあたりを全てコミカルに描いていて、他の登場人物の視点などで「明るさ」「希望」「なぐさめ」もちゃんと与えてくれているので、そこまで悲痛な気持ちにはさせない映画なのですが、それでも後からじわじわ来ます、

松子・・・・・

と(笑)。



続きはまた明日・・・(まだあるのですw)



2020年10月16日金曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その1


vol,1 松子の「孤独」を考える


先日「嫌われ松子の一生」という映画を観ました。2006年上映なのでだいぶ前の映画ですね。当時話題になっていたのですが、その時はあまり興味は持たずに観ていなかったのですが、その後主演の中谷美紀さんがインド紀行の本を出版し、それを読んでこの映画のことが印象に残っています。中谷美紀さんがヨーガを愛好しているというのは出版以前からちらっと知っていたので、インドやヨーガを彼女がどう体験したのか興味があって読んでみました。


本を読んでわかったのですが、その時の渡印の理由のひとつとして、純粋に本場でヨーガをしたいという目的もあったそうのですが、「嫌われ松子」の撮影が過酷すぎて精神的にボロボロになり、逃げるようにインドへ行った・・・的ないきさつが書かれてあったのを覚えています。本を読んだのもかなり前なので細かい内容はあまり覚えていないのですが、インドでの様々な体験記よりも、ちらちらと出てくる「嫌われ松子」の現場がどれほどキツかったか・・という吐露のほうが印象として残っています。おそらくそれについて多くのことは書かれていなかったように思うのですが、“心底きつかった”のだろうということがじわじわ伝わってきて、インド体験のエピソードよりも「どんだけ松子大変だったんだ・・!!」と思った記憶の方が強いのです(笑)。(撮影では監督から激しく怒鳴られ、あまりにつらくて撮影を放棄して現場から帰ってしまったこともあったと・・、後からネットの記事などでも知りました。)


そんなわけで、中谷美紀ちゃんをボロボロにしてインドにまで行かせしめた映画、という印象だけが強く残っていた「嫌われ松子の一生」。



すごい面白かったです!!!(笑)。


大集中して観れました。


こういう時「もっと早く観ておけばよかった」というような感想も言いがちなものなのですが、いやいや、今の私が観て非常に面白かったのだろう、と思います。


かなりネタバレしちゃうけど、感じたこと、思ったことを話しますと・・・まっさらな状態で映画を観たい方は、鑑賞後に読んでください。




話の流れとしては、松子の転落、です。
主人公「松子」はいろんなタイプの「ダメな男」に堕ちていきます。スタートの「笑顔が嘘くさい好青年」に淡い恋心を抱くくらいはまだぜんぜんよくて(でもその時にもう松子の男への見る目なさがちゃんと表現されてんだなと思った)、そのあとは売れない小説家DV男、そのDV男のライバルで松子の体とライバルへの優越感が目当ての妻帯者、松子の金を使い果たすヒモ男、平和すぎる男(笑)、そしてだめ押しに、親分の金を博打に使い逃亡する若い舎弟・・・。

終盤のひとつのハイライトとも言える段階で、親友の女友達に「こんな男といっしょにいちゃだめだ!!」と強く言われても松子は、


アンタになにがわかるのよ的に

『ひとりぼっちよりマシ・・・・』

と、唸るように、吐き出すように言うのですよね。


もうね〜〜〜(笑)、、、松子・・・・
ため息が出ちゃいました。


それは「共感」でも「批判」でもなく、なんとも言えない気持ちにさせられます。


あえてヨーガ的に言いますと、関係性への依存というのは「永遠ではないものを自分だと思ってしまう」という「無知」の部類に入ってしまうのですが、生身の人間の心のサガを思うと、一言に「愚かだ」などと言えないものがあります。

そうだよね、松子・・ひとりぼっちはいやだよね・・・

と同情しそうになるのですが、いやいや、親友の言葉の方が本当だぞ、とも(笑)。




それで、「ひとりぼっち」を考察しました。

 その心許なさ、拠り所のなさ・・・

若い時分はまだ経験も浅いので交際相手への依存的な気持ちもしかたないところがあったとしても、年を経てもなお、それが荒んだものや発展性のないものでも誰かとの関係性に依存してしまう心理。


ひとりよりマシ・・・・


松子の場合は完全に幼少時代からの「愛情ロス」で(そのように描かれていた部分がわりと大きい)、根本的体験は「父に笑ってほしい」「父に注目されたい」・・・そこからの「誰かに愛されたい」という気持ちが潜在的に大きいのですが、それが転じて男性に過剰にエネルギーを注いでしまう人格になったようです。

でもまあそんな「いきさつ」や幼少期の親の愛情不足という話は、多くの人が似たような経験を持っているものでもあります。でもみんなそこまで堕ちたりはしない。


松子が極端に堕落的な人生に堕ちていくのは、「マシ」という言葉に表れているように思いました。極めてダメな男だけどいないよりまし。相手がいれば、愛を注げるから。それによって生きている実感が保てるから。



ひとり、ってなんでしょうね。
松子が怖れた「ひとりぼっち」とは。

ひとりでいても「孤独」じゃない人はいますが、とりあえず今回の物語の中での「ひとりぼっち感」を「孤独」としますと、自分自身が生きている実感や世界から必要とされている実感があると、人間の心という機能は活性化していられるように思います。「ひとり」であったとしても、生活や人生の中で何か「注げるもの」や「役立っていられる場」みたいなものを持っていることで、例えば恋人や配偶者、一緒に暮らす家族がいなかったとしても完全な孤独にはならないように思います。

ただ!それは「社会的な孤独」ということについてで、人間には「生き物的な孤独」があります。生き物としてのひとりぼっち感ですね。



続きはまた、次回・・・・

2020年8月22日土曜日

ジャイナ教っておもしろい 〜視点変更の必要性を考える〜



ジャイナ教っておもしろい
〜視点変更の必要性を考える〜



現在「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)というオンラインでのヨーガ哲学コースを実施していて、その中でヨーガ哲学に関連のあるインドの宗教のいろいろを紹介しています。

というのも、ヨーガ哲学の基本理論は単独で出来上がったものではなく、時代の中でいろいろな思想に揉まれて影響を受けつつ変化・成立していった流れがあるからです。

ひとつの経典を学ぼうと思った時、その経典の考え方を支えているものが複合的にあり、下地になっている思想を解剖するように紐解いてみると「なんでこういう事をこの経典で言っているのか」というところが見えてきたりするんですね。

そういった理由から、「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)」では、ヨーガスートラを単独で見てみるという作業から、その周辺世界へと一歩踏み出すような感じで、「その当時のインドってどんな思想が渦巻いていたのか」という、いわば全体の地図を見ながら進む方法を取っています。ヨーガ哲学の骨格となる基礎理論を学んだ人には、さらに深い理解や考察する視点の位置をあげるような学び方を提案しているコースです。


その中で、ヨーガの源流となるヴェーダ(後期)と時代を共にする「原始仏教」や「ジャイナ教」という宗教に関しても紹介しています。



ジャイナ教ってのがまたすごく面白いのです。

ジャイナ教と言うと「徹底した不殺生」を遂行する宗教、というくらいでしたら知っている人は多いかと思います。
命あるものを殺さない、虫一匹殺さない、という姿勢です。

肉や魚、殺虫剤をふんだんに使って育てた野菜や果物を食べ、Gちゃん(あれねw)も蚊もハエも嫌う現代人の感覚ではなかなか実践も理解も難しいために、そればかりが強調され印象に残りやすいとは思いますが、ジャイナ教はそれだけでなく、神学的な要素や自然主義的な発想だけではなく、むしろかなり整理された哲学を持っている宗教なんですね。




そのひとつが、不定主義(スヤード・ヴァーダ)というものです。


開祖であるマハーヴィーラは、当時の思想家たちや仏教の開祖であるゴータマ・ブッダと同様に、「言語による真理表現の可能性」を深く模索しました。

そして、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えます


マハーヴィーラは「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と主張しました。

言語的に表現した時、真理(真実)はすべて相対的なもので、ものごとは「ある点から見ると」という限定付きでしか表示することができない、と説きます。彼のこうした立場を「不定主義(スヤード・ヴァーダ)」または「相対論(アネーカーンタ・ヴァーダ)」と呼びます。


具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると」という限定を付すべきだとする「スヤード論」を用います。


ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世にヨーガ哲学の柱のひとつとなる「サーンキヤ学派」の二元論や、ヴェーダーンタ学派の不二一元論、また仏教の無我論などと対抗してインド思想史上重要な位置に置かれます。



ジャイナ教の基本的な思索態度として「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と唱えます。


これは現代の私たちにとって深く考えてみる大事なテーマだと思います。


もちろん、過剰なまでの相対思考は、結論や決定を逃す場合もありますが、現代人の知性のあり方としては「決めつけてしまう」ことの狭さに陥ることの方が多いかもしれない、と思います。


それゆえに「これはこうなんだ」と一方的に決めつける前に、この視点ではそう言えるが、はたしてそそれだけだろうか」という物の見方をできない人の方が多いと思います。


これは個人的な意見ですが、何かを考えることにおいて視点変更が可能というのは、知性のスペックが高いということだと思います。

知性に対して「スペック」という言い方はなんとなく無機質な感じがし、やや差別的にも聞こえそうであまり好みではないですが、そんな言葉のフィルターも外して言ってしまうと、心を漠然としたものとは捉えずに、「知性」というものも「機能」のひとつだと考えるインドの心理学的理論で言うと、知性の認識能力がきちんと働くというのは、知性が持っているもともとのスペックなのだと思います。



「この視点ではそう言えるが、はたしてそれだけだろうか」ということを見極めて、偏らないものの見方をしたうえで、
そのうえで今この瞬間に出さないといけない判断や意思決定などができると、心の偏りに支配されずに冷静に物事を進めていけるようにもなるように思います。


人の心とは、生きていろいろな経験をしている限り「偏り」の集大成みたいなものなんですが(笑)、だからこそこのような視点を変えて見てみることや、自分の思い込みというフィルターを一旦横に置いて観てみると、新たな視野が得られると思うのですよね。




こういった宗教的な内容を、(私の場合)講座資料として編集したり、再度調べなおしたりしていると、いつもその時その時の事象になぞらえて考えてしまうのが常です。

現在進行形の「コロナのこと」もそうですね。
それぞれに立場と視点があるのは当たり前として、そのうえで視点を変えて考えるようにしています。


私のもともとの性格の偏りもあるのですが(笑)、みんなが「同じ流れ」に流されて行くというのを見ると、気持ち悪くなってしまうところがあるんです(爆)。コロナの件でよく言う、「新しい生活様式」という言葉も、言葉による洗脳だな・・とかね(笑)。変わってよいものもあるとは思いますが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持たずに生きていると、何も考えずに従属するばかりの生き方になります。



考えるということは、私たちの心の筋力みたいなもので、使わないと衰えます。いちいち議論的になったり争ったりする必要はないですが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持ち、視点を変えたりしながら自分なりの考察をして行く必要があると思います。


もちろん、コロナという大キックで、必要な変化だけど起こっていなかったことがようやく起こったり、古いものを打破したおかげ価値観や行動の視界がひらけたこともたくさんあると思います。いい機会だった、と思えるものもたくさんあります。




しかし、個人的には「接触を控え続ける」ということには人間の人間らしさの根本として、限界があるだろ、と思ってしまいます。


なんでもかんでもオンラインでやる、オンラインでやれるからいいじゃん、というのも、ちょっと気持ち悪いです(笑)。
オンラインで「済む」ものも、オンラインの方が効率的なものもたくさんあると思いますし、オンラインで新たに可能になったこともたくさんあると思うのですが、「オンラインで済む」に同調しすぎるのは懸念が大きいです。


コロナ関係なくこの8年ほど、オンラインでヨーガ哲学を提供してきて、インターネットの恩恵で生きてきたという部分が大きい私が言うのもなんなんですが(笑!!)、人と人の間には、実際に会って、その温度感や空気を共有してしか得られないものが必ずあるとも思います。


先日、東京国立近代美術館に行きました。ずっと観たかったピータードイグ展を観に。緊急事態宣言の期間中、ピータードイグ展のオンライン鑑賞の番組が開催され、それを視聴してとても楽しかったのですが、やはり生で観ることの素晴らしさにはとうてい敵わない!!と唸ってしまいました。オンライン鑑賞をしたあとなので、なおさらそう思ったのだとも思います。


人間同士こそまさにそうだと思います。
実際に会うことが必要。
ふれあいは必要。



細かい事で言うと、現在私の所属しているスタジオは感染症拡大防止対策として、レッスン中のアジャスト(体に触って姿勢を直す行為)は控えていて、スタジオの方針であり、それをしていないと自治体の方針に協力をしていることにならないので、企業としても仕方ないのもわかります。私たちも従っているのですが・・・


実際、ヨーガクラスとしてすごーーーく無理を感じます。

アーサナの取り方と姿勢を修正する方法を、なるべくわかるように言葉で声がけしているのですが、言葉で聞いたことをそのまま自分の体に反映できる身体感覚のするどい人ばかりではなく、ヨーガを始めたばかりの人や、長年の姿勢の癖などが強い方には「手取り足取り」の作業も必要です。
間違った姿勢でアーサナを取り続けることは、修正すべき癖をさらに助長していることになり、もどかしさを感じますね。

ま、がんばって言葉で伝えますけどね、しばらくは(笑)。前向きに、これも先生としての成長と受け止め。

お家でヨーガができる機会が増えたのは素晴らしいことですが、できないので」という理由だけで物事が進んだ段階から、本質的なニーズに立ち返る時がそろそろ来てもいいのではないか思っています。それはヨーガクラスに関してだけではなく、いろいろな分野で。

コロナで否応無く、ある意味仕方なくそうなったところからの、次の段階へ。個人的にはそこを見逃さずに考えるようにしています。



そんなこんなで、身近なところで言うとそういう事もありつつ、コロナうんぬんに関しても、それ以外も、哲学や宗教理念が考えの幅を広げてくれたりすることは多々あります。そればっかりだ、と言ってもいいほど。



ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは「言語による真理表現の可能性」を深く模索した、と述べました。

言葉は、意味とエネルギーを同時に運びます。
それらの言葉たちの中に「視点の違う真実」の多くが含まれています。
それらをすぐに「正解か不正解か」という発想に繋げたがる世界になっているのが昨今の日本ですが(今に始まったことじゃないけど)、言葉の中にある「意味」、そしてそれがもたらすエネルギーが、自分や世界に対してどういった影響を生んでいくのかをしっかり見つめながら生きたいなと思います。


ナマステ