EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2017年12月11日月曜日

人生への親密度と、対処療法を超えたヨーガプラクティスについて



前回の記事で、サントーシャという「満たされた心」についてを話しました。

一般的には「知足」というように訳されますが、
これって「訳」ではないなと思います。


私のサンスクリットの先生は、


「サンスクリットの辞書には、その単語の訳や意味が乗っているわけじゃないのです。概念(もとのもの)が載っているだけで、
意味や文章上での訳というのは、自分で  ”うう〜〜わからない!” とかもがいたりしながらも、見つけていかないといけないのです。」

と、よく言ってました。



泣けるね。


これって、ヨーガや、思想や哲学、宗教や信仰、そして自分自身を理解してくすべての道に共通しているなあと思います。




たまたまサントーシャ(知足)を引き合いに出してますが、

こういうのって、

言葉から入ってしまうとその「意味」を探ることに時間と思考をつかってしまうのだと思います。

意味というのは架空のリンキングみたいなもので、

実際そうなのかというのは誰にもわからない。



私の瞑想の先生が言っていた言葉で、

「ヨーガ・スートラっていうのは、そもそも瞑想体験のことが書かれているものだから、ある程度のところまで読んでわかった感じがしても、
その先は瞑想を継続してやってないと、まったくわからない書物だよね。」

と。

これにはとても同感で、時間を経れば経るほど同感です。


ヨーガ・スートラにも載っている「サントーシャ」も、体験があってこそ理解につながるもので、本にそう書いてあったからそうしよう、というような動機だけでは、入り口にも立てないほど奥深いものだと思います。

言葉の持つ輝かしさが、一時的に心を照らしてくれることもありますが、
その言葉の真意は、行動を通じて自分を変えたり、自分の行為の中で洞察していくような能動的なアクションがないと、言葉としての「知足」を超えることができないのだと思います。




例えばだけど、サントーシャのよくある解釈で


”今あるもので満たされよう”

とか。

なんか聞こえはいい(笑)ヨガしてるっぽい(笑)


でもそれってもう、そもそも、そう思った段階で

「不満はあるけど、満たされるように努力します。」

という表現だよね、と思ってしまう(笑)


”今あるのもで満足できなかったんだけど、気持ちの問題かもしれないので、「足りている」と捉えてみます、がんばります。”


みたいなね。


これってもうなんか本当に、見ていてまどろっこしく、

低めの位置での現状維持で、内心しみったれてる人のセリフみたい。

欲しいなら欲しいって言えよ!!

正直になってくれたほうが、なんかやりようもあるゼ、

と思ってしまうのす。

のす。

(↑誤字でないことのアピール)



(笑)えらい雑な言い方ですません。でもそうおもうから正直に申した。






人間というのは体験ベースで成長する生き物で、

考え方を「考え」だけでコントロールするっていうのはすごく難しく、

心を心で操作するのは、とてもむずかしい。


だから、

知足、調和、ありのまま、

とかなんでもいいのだけれど、

いい感じの言葉を「飾り」や「隠れ蓑」みたいにしないで、

泣きながらでも「自分の人生にとってどういうことなのか」という意味を知ったらいいと思う。



”言葉の真の意味”を知るということは、

生身の体験によって自分の内面からえぐり出された血液みたいに、


リアルな、


飲んだら味があり、触ったら温度のあるものなんだと思う。


本を読んでも血は出ないけど、ちょっと走ったら汗は出る。

その汗かいてる自分でしか気づけないものがあるよね。

いつもそうやって理解してきた、とりあえず私は。暑苦しいね(笑)。

でもそうでないと、人生に直結するほどの「理解」にならないのだと思うのです。


何かを失敗するまで、

コテンパンまでやりきってみたり、

欲しがって得られない体験や

得て失う経験も、

そういうことをバカみたいに繰り返しながら



やっと、やっと、


大事なものをどのくらいの力で握っていたらいいのかがわかる。

放さないけれども、血の流れ止まっちゃうほど力いれずにいられるようになる。


自分も含め人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、

本当に幸福なことだと思う。




よく、悟りとか言うけれど、それだって別にすごいことなわけでなく、

この世界や自分の人生に対して、

本当の親密さを感じられるようになる

ただそのことだと思います。


そう感じられるようになるには、

さっきも言ったようなトライ&エラーの数々の中で、

その中に必ずある、なにかキラっと光るもの

それに気づける心を大事に大事に育てるしかない。



意識の中の呪縛が、記憶の中の呪縛が、強烈な呪文でもって



「また失敗するよ、また失うよ、また悲しむよ、しってるよね」



と言い放ってきても、



深呼吸して、冷静に、自分に負けないでいられる心を育てること。

人間の日常には、そういった自分自身との向かい合いという、

ハイエンドはプラクティスがある。




言ってしまうと、瞑想するなんて、それほど難しいことじゃない。

自分をよく知ることのほうがよっぽど難しく、

そもそも自分の持つ怖れに向かい合うことなんて、

お金もらたってしたくないほど億劫で難儀な作業なのに、

それでも多くの人がお金払ってでも、ヨガや、セミナーや、宗教や、カウンセラーやヒーラーの元で、自分と向かい合うね。

それは、そこにしか突破口がないということに、潜在的にも気づいているからなのだろうと思います。

自分をどうにかするしかない。






ヨーガの教えがたくさん載っているヨーガ・スートラや、他にもたくさんある経典は、意識レベルによって関わり方が変わってくると思います。


初めは、処方箋のようにすがってしまうかもしれない。
ヨーガの経典を対処療法的に使っている段階ですね。
根本的な対策とは離れて、表面に表れた状況に対応して処理することにヨーガの教えを使っている段階。

でも、「そのまま飲めば、これに効く」というような薬はない。

それがたとえヨーガ・スートラのような聖なる書物でも、
ヨガそのものであっても

そうなんだ・・・、

ということがわかってくる。


経典の内容は、単なる心や意識を描写なのだとわかってくると

本当の興味はもはや経典以上に、自分自身に返ってきます。

そうなってくると本当に、

ヨーガ・スートラでもバガヴァッドギーターでもそうだけど

これ、えらいおもしろいね!!


と心からの親密度が高まってきますね。









今日の最後に。



例えば、

長いことヨガやってても心が晴れないと感じるのは、
ヨガする時間の「心地よさ」以外に、

自分の内面ととことん向かい合うという心のプラクティスをしてないからだと思う。

自分の中からなんか”変なもん”が出てきても、それを明るさで照らしていくような、
それはある種の苦痛もともなう作業なんだけど、
自分に対しては自分でやるしかないよね。

そしてこういったプラクティスの恩恵はすごいから、
信用するに値すると思います。

自分の内面の暗さやネガティヴなものにも、
明るくて楽しくて大好きな自分に対してと同じくらいの愛を向けると、
なんといっても「慈悲」がわかるようになってくる。

人って、ほんとに仕方のないもので、
慈愛や慈悲の心でしか救えない部分があることがわかると
自分の弱さも、人の弱さも、
「すぐに変わらなくていいけど、でもいい方向にいけるようにがんばろうね」

と言えるようになってくるね。


さっき言ったことをもう一度。

自分も含め、人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、本当に幸福なことだと思う。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



長くなった。
いつも本当にありがとうございます。




最後に宣伝させて✨


<新しいコースのご提案>
意識改革と生き方の向上を促すコースです。
2018年をピカピカなハートからスタートできるように、元旦からスタートします。えみり先生盆暮れなくはりきってがんばるね(笑)みんなと関われるのがとても楽しいので、三が日も精神的に営業中。
運動もあるコースなので、正月太りとか強制的にできない仕組みのコースです。
*運動強度は無理ないところに調整できますのでご安心を。



悟り意識の目覚めとライトボディへ、スピリチュアルヨーガメソッド
「師岡絵美里のヨガエンライトメント」
オンラインコース




日常生活の改善と向上

運動による体への働きかけ

感情と心のケア

ヨーガ哲学の学び


これらが主軸になってます。
詳細はサイトでじっくりどうぞ。

「師岡絵美里のヨガエンライトメント」オンラインコース
モニター&リピーター割引での申し込み受付:2017年12月19日(火)24:00まで 
https://www.heartmatrix555.com/home/online-yoga-course/%E3%83%A8%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9/








愛と感謝をもういいよと断られそうなほどにこめて💓
EMIRI


2017年12月5日火曜日

Samtoshaー完全なる喜びー


先日、ヨーガ哲学講習のバガヴァッドギーターの回で「サントーシャ(知足)」について話題にあがり、お話しました。


サントーシャは「知足」「あるがままを肯定する」というようにいくつかの表現ができるのですが、

その根底にあるエッセンスはなんでしょう。


というのも、もともと消費のための経済社会と自意識過剰な世界にいる現代人。

物と情報にあふれた世界に住む私たちには「samtosha」ということの本来の意味合いを掴むのは、なかなか難しいものなのかもしれない、と思うことがあります。

人によって解釈が変わるのは、自然なことなので、どう捉えるかは自由なんですが、

ややマニア思考の私はさ、

発想が狭〜く偏ったところでこういうキーワードを解釈してしまうと

せっかくの[全体世界観]を、いちばんおいしい状態でキャッチする面白さが、減っちゃうのね

って思うのですわ。


なので私なりに感じるところも書きます。

別にこれが「正しい」解釈だとかそういうことじゃぜんぜんないです。
「正しさ」を振りまわしてると、いつかは自分で作った檻の中の哲学者みたいになるからね。それはやめときたい。






数年前にヨガスタジオLAVAさんのご依頼で新インストラクターさんにプレゼントされる
「YAMANIYAMAカード」、その中のサントーシャです。すごく気に入ってます。






はい。



サントーシャを受け身の発想で捉える人は

「あるもので満足」というような「条件へのあきらめ」と混同したり、

「現状で満足する」と捉えて、欲求をもっちゃいけないと勘違いする。

この場合そもそも「欲求」と「希望」、
ないしは「期待」と「希望」の違いがわかっていない
という“ベース勘違い”があるのがわかります。


知足ってそういうことじゃないのだけれど、
「欲を持たないようにする我慢」みたいになってしまい、
実際は満たされていないストレスをためたりする人もいます。


または、部分的に解釈して「少ないもので暮らす」などのスタイルにこだわりすぎたり、
そういった”様式”を徹底するあまりバランスが悪くなったり。


そういうこともよく見聞きします。




私自身はこのようなサンスクリットのワードについては

まずは歴代のグルの解釈を見ることと同時に

インドとの文化や風土的な違いを考慮して、日本発想をいったんはずしたところで見てみる作業をします。これかなり大事。


そして、自分の辞書で調べて単語の一番小さいまとまりまで遡り、
場合によっては語根まで行ってみます。

そうすると言葉の持つエッセンスが見えてくるからです。




私の初代サンスクリット辞典。スチューデント用で辞書をひく練習をさせてもらい、だんだんもっと分厚くて文法知識や単語判別力がないと引けない辞書へと入るのですが、いまだにこれで引くことが多い私。
















サントーシャsamtoshaは、
sam:完全に、tosha:輝き、喜び、満ち足りた心。

日本語のカタい言葉だとよけいにわかりにくくなることって多いのですが、これもですね。

私なりに感じる[santohsa]は

自分自身が「完全なる喜び」「完全なる輝き」「完全に満たされた心でもって」

と捉えてもよさそうに思っています。


自分自身の心を「満たされた状態で」万事物事に向かってみよ、

ということなのではないかな、とね。


ある状態とかある物をさして「これで満たされておくとする」というような、どこかから与えられた満足のことではなくて。



そもそも、外界のあり様に対してサントーシャするのではなくて、

自分自身の心のあり方をサントーシャにするという、

自分の初期設定を決定するような能動的な作業だと思っています。


サントーシャ。その心をもって外界に向かおうってわけだ。


そんな感じに思ってます。






ヨーガの八支即のヤマ(勧)は、心の初期設定をいつも教えてくれる。

人生の中で、いつも同じ精神状態でいられるなんてことはないから、

「自分自身について」という意味でのヨーガは

長く地道に、間をあけずに気をつけていないといけないね。




「人の価値」なんて言葉自体がそもそもいやらしいのだけど、

もし自分の価値みたいなものを考えるのであれば

能力ではなく、心の態度の質だと思う。

サントーシャしている心をもし完全に持つことができたら・・・

と、想像してみるだけでも、すごく価値のあることだと思います。

いつも、グルたちのあの赤ちゃんみたいなピッカピカな目を思い出す。

サントーシャの体現だなあと。

EMIRI


2017年11月22日水曜日

アートマンとコーヒーミルク〜過干渉のススメ〜


こんにちは。えみりです。


きょうは。

エネルギーの「展開」と観察者についての考察。

というところから行きますが、おちがどこにいくかな〜〜(笑)。




イメージしてくださいね。




スプーンでゆっくりかき混ぜたコーヒーに

ポーションのミルクを数滴落としてみると、


ミルクはぐるぐるまわりながら

様々な模様を変化・展開していきます。




その展開のプロセスには、


 スプーンでかき回したコーヒーの速度と方向、

 ポーションのミルク数滴の落とし加減、

 コーヒー自体の温度や、その変化


そういった様々な「条件」を帯びてぐるぐると回転し



ぶつかったり、混ざったり


あらゆる可能性を持って「干渉」しあいながら、その模様を作っています。





この「模様」の見え方、デザイン、これが今現在自分が目の前に見ている「現実の」風景だとします。




それは次の瞬間にはもうそうではない

一瞬のまたたきで、


毎秒、変化することだけが定められた、ただの「動き」なんですが、

人間の意識の次元の低さが、本来は「一瞬」であり、変化してしまうその模様を、やや長いスパンで「変わらない風景」のように見ていられる「時間空間 」を生み出しています。
インド思想の言い方だと「アハンカーラ:自我」ですね。






仏教と、インドのバラモン寄りの思想の大きな違いは、


そういった現象の変化を「とらえている何者か」についての「取り扱い」です。


インドの考え方ですと、現象を観ている主体(デーヒン)である「アートマン(真我)」をかかげていますよね。

しかし仏教では、アートマンはない、とします。



これがバラモンおよびヒンズー思想と、

釈迦の解いた原始の仏教の大きな「違い」とされますね。

一般的にはそうです。

私はこの一般的な説をちょっと一回、横におくこととして

角度を変えて絵解きするような感じで観ています。







さきほどの例えで、

ぐるぐるまわるコーヒーにミルクを数滴落としたところからの「動き」。

「動き」が生み出す「干渉」で、「変化」していくと話しました。






この「干渉」なんですけど、



一般的な時間感覚は、


過去 現在 未来


という順序だと皆がおおかた信じているので


「過去のこの出来事が今のこれにつながってる」


と言いがちです。

つまり過去から「干渉」を受けている。



しかし、コーヒーカップの中という世界が、

一人の人間の一人生だとしますと、

その「干渉」は常に内部で「現在」起こり続けているのが、一目でわかります。


1:ぐるぐるミルクの中心付近で起こっていることは、

2:同時に、カップの縁にちかいところで起こっていることから、

今この瞬間、影響を受けていて、

もっというと、

上記の1と2は「双方向」的に干渉しあっています。

おしくらまんじゅうみたいなことです。



となると、普段私たちが「過去」とか「未来」と呼んでいる時間概念的な座標は、

「現在」という性質が持っているたくさんのレイヤー(層)の中の、

あるひとつのレイヤーにすぎないことがわかります。

それは ”時間的な意味合いでの未来” でも

”時間的な意味合いでの過去”でもない。








インドのヴェーダ権威的な思想ですと、

このコーヒーとミルクのぐるぐるを「ただ観ている」という自己を、

アートマンおよびブラフマン、またはサンキヤ思想などの言い方をするとプルシャ、と言います。

こういった「不変の自己」というものをヴェーダ文化(バラモン教、ヨーガ派、ヒンズー、全部含みます)はかかげますよね。


コーヒーとミルクのグルグルを観ている自己があり、

見ている自己は、ひとつのコーヒカップの「ぐるぐる」を体験しおわったら、べつのコーヒーカップに宿り、なんども「ぐるぐるを経験」をする。


これ、インドっぽい思想ね。輪廻転生スワハ。






で、


かと思うとブッダの説いた思想では、アートマンはない。となる。


どっちやん、て。



どっちだよーーゥ!!!








えっとねーーーーー(笑)


この「どっちかに決めたい」「正解を決めてくれ」という発想自体が、

試験勉強で育ってしまった日本人くさい優等生発想なので、それちょっと今は捨てよう。優等生してたらヨーガはわかんねーぜ。

いつもインストラクターさんの講習でも言ってたけど(最近やってないのでまたやるね)、

インド思想理解したいなら、その「正解」を欲しがる気持ちを捨てないと、わかんねーよガールズ♡

と言ってきたよね、みんな(笑)おぼえてる?






自論ですが、「どっちでもいい」(笑)



アートマン、ある

アートマン、ない


どっちでもいい。

個人的には、どっちの思想にも強烈に惹かれるので、どっちでもいいです(笑)。






わたしがしりたいのはーーーーーーーーーーー!



「何が起こっているか」


だよ。


そこなのです。







続きはまた書くね。



(爆)



うそうそ。とりあえず、きょうまとまるところまで書くね。




きょうのところのまとめ。




アートマンがある・なし、に関わらず



「コーヒーカップの中のミルクのぐるぐる」はありますね。


それが私たちの一人一人の人生だから。



もちろんその現象自体が「幻想」

インド宗教の言い方ではマーヤー(幻)

仏教の言い方で、「色(動き)」つうのは「空」なんだよ、ですね。
*空についての訳はあえてしないどくね。




どっちも。それァ幻想〜だと言ってる。

なのですが、

物事を体験するための自己を持っている限り、私たちはそれをリアルに体験します。


インド思想的にとらえると、ひとつのコーヒーカップのぐるぐるの回転数が終わったら、次のコーヒーカップに移ってまたぐるぐる。
カルマ背負ってぐるぐる。




仏教的な感じだと、
コーヒーとミルクの織りなす「ぐるぐる」渦巻きのいろんなポイントに座標(自己)を置くことで、
あたかも違う人生を歩んでいるように見える。

でも人類全体はひとつのコーヒーカップという「識*」を展開して、
その中でミルクは、はじめのひとつの「動き」からありとあらゆる干渉をうんで、結果が原因となり、原因がまた次の結果を生みながら、
ぐるぐるしているだけ。
その生命の躍動とも言える連続的な干渉をいろいろな「地点」で認識しているのが、個人意識。

 *識:ここでは密教的な使い方で言っています。すべてのものの存在に遍在している純粋意識とその総体、のように捉えます。








よく、「起こっていることにはみな意味がある」

などと言うけれど


ほんとにそうか?



(笑)



意味ではなく、現象としてミルクがぶつかりあっているだけでもある。

ただそのぶつかりあいは、単に一方方向から来ている波ではなくて

海流みたいに、


ものすごーーーーーーーーーーーく遠くで起こっていることの影響を


ものすごーーーーーーーーーーーーーーく離れたところで受け取っている、


実際はそういうことのほうが多いのでス。








だからさ、うまくまとめると(笑)



あの時ああだったら、いまこうなんだ、

とか

私がこうしたから、こうなったんだ

とか

あれがああだったから今こうなんだ、とかね


ある次元までは「ある」とはおもうけど、

あんまりそういうことにいろいろ言ってても

それこそそんなに意味はない

ってことだと私は思う。



次の瞬間、どっか知らんところから来た「干渉」を

波の出どころを知ることもなく体験する

とも言えてしまうほど

物事というのは広大な領域で生成されて

個人の人生に届きます。




でも大事なのはそこからで、



「次の干渉」を生成するのは、この瞬間の自分の行為。


なにをするか、

なにを思うか、


そういったエネルギーの投げかけが


遠い遠い、一生会わない、かすりもしない人々の人生に


強く影響を及ぼす「波」を送っているとしたら?



だとしたら、


いい波(干渉)を、出したいよね。


それが人情じゃんね(笑)




そういうのを、



愛の過干渉💗


と言います!!


あははははは(爆)


オアトがよろしいようで☆




ま、これは、実際にうまくやれているかどうかの話じゃない。
気持ちの問題。
だからうまい人生送れているかなんて、自己評価も、人の評も気にしなくていいと思う。


波を放つ時の、自分のその時の心持ちの問題だと思う。











こんなながーーーーいの読んでくれてありがとうございます。

もうここまで読んでくれる人って、すごい心の友だと思う。

異論反論あったとしてもね。

勝手に友情を送って干渉するね☆



ありがとう。

EMIRI






2017年11月14日火曜日

苦しみと救済についての考察


こんにちは。えみりです。
今日は、最近のわたしの考察を送ります。

最近は、インド思想と仏教思想の違いに影響&反発があったところを見つけ、そこから「相違」と片付けられがちな両者の理論の違いの中に
そんなことはないんじゃないか、もしかしたら、
私たちの意識レベルが低いだけで、その本当の意味(同じことを言っている)がわかっていないだけなんじゃないか、
というところを、常に考えながら、自分の体験する物事を見ることで検証中です。変態だね、私。






ブッダの言葉に、


  自分の救済者は自分自身である。

  他の誰が救ってくれようか


  自分を正しく制御してはじめて


  人は得難い救済者を手に入れるのだ


  (真理のことば160)






ってあります。


仏教思想をみていると、物事の因果関係は、

けして過去と現在だけはなく、

未来からくる因果のようなものを感じます。

(縁起についてはまた書きます。)




この先大丈夫になっていくように、成長できるように

今このくらいのこと、超えとけ、、、

みたいな玉を坂の上のほうから転がされる(笑)。

玉を投げてくるのは、未来の自分。

そんなインディージョーンズみたいな時間劇。




ブッダはわたしたちに

人の心が持つ特性、


「”苦しみ”を苦しむ」という執着について


よくよく考えてみよ、と言います。





この世界が無常だということが本当の意味でわかっていれば、

”苦しみ”に苦しむことはないのだとブッダは言います。




もしも本当に「無常」を理解していれば



「希望」を持つこととセットで「落胆」も同じカゴの中に入れてしまうことはない。



ある日急に、希望が損なわれた時、

カゴの中に残っている「落胆」のほうに目がいくのは、人情的にしかたのないことなのだけど、


そもそも無常を知っていれば

わざわざカゴの中に「落胆とセットの希望(つまり二元性の苦しみ)」を入れなくても、

物事の「そのまま」を希望とすることが可能なのだろうと思います。







私は、自分で作ったヨガ哲学の集中トレーニングのテキスト中に、

「カルマヨーガ」についての見解と補足を書いておりました。

以下、自分で書いたこと。



「カルマヨーガ」は無償の奉仕・善行とも言われますし、

行いのすべてを神に捧げることとも言われますが、

 ”何かよいこと”をやったので、”何か良いこと”が返ってくる

という ”期待” の中で行われるものではなく、

その瞬間の行為そのものが

それを行なっている矢先からすでに、ポジティヴなフィードバックとなっている状態のこと。


活動の中で目的を持ったり成果をあげていくことは、今まで通り続けていくけれど、

しかし自分自身が受け取る最大のギフトは、

今この瞬間の”行い”そのものである

それを見出していくのがカルマヨーガです。






と私は書きました。


・・・・われながら解釈力に泣けるんだけど(笑)

しかしもはや、自分に刺さってくる真理の逆輸入。

人生っていろいろだ。

いろいろ痛感・・・。








ブッダの言葉からの考察。


「苦しみを苦しんでしまう」ことから脱するには

私たちの意識がもっと洗練されなければ逃れることができない、と。



ブッダは

もっとも深いレベルでの苦しみに、よくよく関心をよせてみよ、言ます。

最終的には「偏在することへの苦しみ」についてを追求することであり、

それは、

私たちが先天的に持つ「本質に対する無知さ」を理解すること、
と説きます。

サマーディ(三昧)に深く入った状態であったとしても、

その集中から現実の世界に戻ったとき、まだ自己への愛着は残るのだから、と。

その自己への愛着は、いずれ対象を求め、外界への執着につながっていくから。







もう一回ブッダの言葉に戻ってみます。




自分の救済者は自分自身である。

他の誰が救ってくれようか


自分を正しく制御してはじめて


人は得難い救済者を手に入れるのだ






最後の一文、「得難い救済者」。


ブッダのオリジナルな教えではこの救済は「智慧:プラジュニャー」という「本当の知識(理解)」なのだと思います。

それと同時に、インドの文化的発想にだいぶ浸った私には、
これは「グル(師)」のことのような気もします。
現実的には誰か手を差し伸べてくれる人がいることも多い。
導きを与えてくれる人。





何かひとつを乗り越えようと、

自分自身に飽き飽きするほどの関心と、心からの質問を持った時、

とりあえず、、、私の人生では毎回、

「先生」と呼べる救済の存在が現れます。



娘が今よりももっともっと小さかったころ、私は自分の人生を支えて保護してくれる基本的な思想として、それまでも知っていたヨーガが、本当の意味で機能しはじめました。

同時に、サンスクリットの先生や、瞑想の師匠と呼べる先生に会えました。

その先生たちの教えは、当時の私を救ったこともまた確かではあるけれど、今現在の私にこそ機能しているようにも感じます。







探求中の事柄なのでここでうまくまとめられないのですが、

むりやりまとめる。




人生の中で起こる辛辣な経験すら、この世に対する自分自身の”機能性”を高めるための「耐久テスト」なのかもしれないね。。。

もしそうだとすると、もともと耐久力や強さを考慮した物体にしかそんな「耐久テスト」は与えられないのだから、自分ってけっこう頑丈に造られてる仕様なんだな、と。
(うぇ〜〜、すごく自虐的前向き発言!!)


こんくらい腹パンチくらっても、

このくらい派手にかっこ悪く転んで炎上しても

あ、、、生きてるね、


みたいな(笑)


いや、そうそう頻繁だとヤダけどね、きついやつは(笑)


でも、時としてさ、

いろいろあるのが人生で

未来の自分が放り投げてきた巨大な球を全身で受け止めて

「大丈夫な自分」をがんばって更新していくことが必要な時もあるのだな、と思った。






深呼吸。

起き上がれば青空。

受け入れて行こう、全部。

「苦しみを苦しむ」は、ブッダもオススメしてないからちょっとやめといて、

そのままを受け入れて、それをどう思い直すことができるかが、

自分との勝負だと思うから。




最後まで読んでくださりありがとうございます。

EMIRI

2017年10月31日火曜日

迷うこと。なかなか決められない、について。


ここ何回かの、


個人セッションのクライアントさんたちとのお話を通じて、思ったこと書きます。




迷うこと。なかなか決められない、について。


多くの人は、「条件」で迷いますね。

家電の買い物などと同じ感覚で、自分の心の状態を決めようとしてしまう。

本当は「心」についてのことなのに、その方向を選んだときの条件、スペックやパフォーマスなどで

「どっちがいいかな」となってしまう。

「条件の選択」に迷っている。



選択肢が多いことって、

それ自体は一概に幸せとか、
豊かさだとか、
言い切れない。

いろんな選択肢があったとしても、

迷うことに費やしてしまう心。


そんな「バリエーション」をすっ飛ばした、


「私はこれなんだ」

「ここは譲れないの」


という ”条件を超えた個人的決定” ができること、


私には、そういうものを持っていることが幸福を感じられます。


もちろんその中にも流動生とか、フレキシブルな幅はあるけれど

基本の選択は変わらない

そういうものを見つけているというのは、


ある種「無駄」がないという良さがあるのと同時に

心の安定があります。


迷うことも勉強のひとつ、というときもあるかもしれないけれど、

迷って迷って、あげくのはてに決めない

とか、

迷って決めて、その選択に自信なくて不安定、とか


選択の良し悪しの基準を外部に求めてしまい

肝心な心が決まっていないなら

何を選択してもそれほど違いがなく、迷いの道の上のまま。






心が決まっていれば

何を選択しても「その道」のうえにいる。




私は、「選択」そのものに未来の決定権があるわけではないと思っています。


自分の道、自分自身のあり方の基本姿勢に、心が決まっているか



だと思っています。

その上での選択。





迷うことがあったら、まず自分の心を見て、

「何に生きたいか」という自分の根源的な、

存在としての「ニーズ」をしっかり意識して

そしてそこに意識を集中。


そうすると、心が決まります。



こういう作業を、最初は迷いの中で訓練が必要かもしれないけれど、

でもだんだんその作業をしなくても

心は決まってる

という自分に安定してきます。




私は、「愛」ですね。愛に生きたい。

そうするとたくさんある選択肢の中から

光る一個が感じとれたりします。

これだろう!

と。



これは、瞑想の中でも同じなのです。

たくさんあるマインド、

空に流れる無数の雲みたいにおびただしく浮かんでは消えてゆくたくさんの思考の中から、

これだ、とよりすぐりのものにすぐフォーカスが決まる。



なにに集中すべきか。


まず日常から、自分の心を大事にしよう


と思います。



 



ありがとうございます!
よい日々を❤

2017年10月26日木曜日

美術館でヨガ。


これ、すっごい楽しみなのです私。

先々週、

こちらの企画のために会場である東京国立近代美術館に下見&打ち合わせにいってきました。

その日は休館日だったため、館内の作品を、

その道のプロであるキュレーターさん独り占めで見学させてもらいました!

楽しかった!


企画内容もすごく興味深くアカデミックかつ洞察的なものなのですが、それを行う「場」の素晴らしさにため息が出ます。

じっくり時間をかけて作品を見れるって、贅沢で豊かな時間です。

東京国立近代美術館秘蔵の作品群に囲まれる、それだけでももう開きますね。


当日は、いわゆる通常の「ヨガレッスン」のようなスタイルではなく、

美術作品を感じることを基礎に、

そこから自分自身の内面と絵画の作品世界の深い部分をつなげる架け橋として、

ヨガの呼吸や瞑想、身体的なポーズをいくつかとります。



今回2つの作品を取り上げて洞察のヨガをします。

ひとつめの作品では、座って行える静かなアーサナ(ポーズ)と、

作品から読み取れる世界観とシンクロするような呼吸法と瞑想をしようと思います。

どんな作品かは、当日まで内緒にしときますね。


ふたつめの作品は、東山魁夷の「道」です。

こちらもまた、作品が誘ってくれる「道」へと続くようなアーサナをとり、瞑想をしようと思います。



とても静かな時間が過ごせると思います。



こちらの企画はご予約はいらず、当日来ていただく運びとなります。
企画の趣旨や注意事項、持ち物などをご確認のうえ、いらしてください。


<美術館でヨガ>

東京国立近代美術館にて、東山魁夷 の「道」など、素晴らしい作品を鑑賞としてキュレーターの先生と作品について対話したのちに、その美術作品の前でヨガをします。





日時: 11月4日(土)17:30-19:00 
場所:東京国立近代美術館
講師:鑑賞進行=一條彰子(東京国立近代美術館企画課主任研究員)
  ヨガ講師:師岡絵美里


ご案内はこちらのページになります。

2017年9月25日月曜日

命のサイクル思う日々


みなさんこんにちは!師岡絵美里です。

だんだん秋になってきましたね。


いかがお過ごしですか。
わたしは〜そうですね、

けっこういろいろあった日々でした。

人が生まれたり、

逝ってしまったり、

がこの一ヶ月くらいでおびただしく、
その中で、自分が生かされていること、

生きていることを強く強く感じなおした日々でした。

たしかに喜びや悲しみというような感情の動きもありましたが、

それ以上に、
生命のサイクルに心を馳せることが多い日々でした。

いろんな感情があったのは確かなのですが、
そういう時もバガヴァッドギーターの言葉が、
ハッとするほどいろいろな場面で足元を固めてくれるような、そんなことが多かったです。

「心の平安、温和、沈黙、自己抑制、心の清浄。
以上は、心的な苦行と言われる。」
(ギーター17章16節)
心を平和に保つこと、穏やかに生きることそのものが「行」であることを感じながら日々を過ごしています。

刺激的でなくても、変化がゆるやかでも、

その中にきらめく光を見つけていける自分自身の静寂。

静寂とは、霊的な刺激そのものです。





うちの窓辺のサラスバティちゃん。